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ワンスアラウンドの『現場マガジン』
2022年7月20日号
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皆様いつもお読みいただきましてありがとうございます。
ワンスアラウンド顧問の馬場です。
今週は、『マーケットレポート』の第25弾をお届けします。
コロナ禍でのマーケットの変化と、商業施設を中心とする現場の変化をタイムリーに捉えながら、
自らも現場を持つ弊社ならではの視点で、これからの時代へのヒントをお届けしたいと思います。
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【Market Report vol.25】
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駅ビル型ショッピングセンターの未来像
鉄道沿線開発のまちづくりにおいては、鉄道会社は大きな役割を果たしており、ともに大きく成長してきました。
前回は民間鉄道の歴史と取り組み内容につきまして、東急グループ中心にスポットを合わせながら報告しましたが、
今回は、国鉄(現在:JR)の「鉄道駅舎と商業」の歴史と取り組み内容について報告します。
我が国で初めて鉄道が営業を開始したのは、今から150年前の1872年(明治5年)の新橋―横浜駅間ですが、
駅利用者に対して構内での新聞販売、売店の出店や食堂を営業したいという人が現れ、それが認められました。
鉄道駅と商業は当初から相性が良かったのだと思いますが、その後の鉄道網の整備・拡大は貨物物流だけでなく、
人の流れや、街の姿を大きく変えました。
東京では、1923年(大正12年)の関東大震災により市街地が大きな被害を受け、
当時は郊外であった渋谷や、更に西の鉄道沿線への転居が一気に進みました。
それにより郊外の新興住宅地に住む人たちは鉄道を利用して、都心に通勤や買い物に出かけるようになり、
駅は人が行き交うまちの中心的な存在となりました。
西の大阪では、鉄道ターミナルでの商業の可能性を見出していたのは、
前回も報告した阪急グループの創始者 小林一三氏でした。
具体的には1929年(昭和4年)に鉄道会社直営のターミナルデパートとして、
阪急百貨店(梅田店)をオープンさせています。
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被災した「まちの中心地=国鉄の駅」の復興に向けて
戦後は、全国の国鉄主要駅に「民衆駅(ビル)」と呼ばれる商業施設が誕生しました。
「民衆駅」とは、鉄道の駅舎内に各種の小売店、飲食店などが入居する民衆施設(商業施設)を
併設したもので、国鉄という公共企業が開発を主導しながら、そこに民間の資本が導入され、
そこで多数の民間の商店が営業したことに特徴があります。
空襲で被災した全国の大都市では、復興を進めるうえで、まちの中心に位置し、
物流の拠点であり、経済の要でものある「国鉄の駅」のいち早い復興が求められました。
線路や駅舎などに甚大な被害を受け、被災した国鉄駅は全国で130超と言われています。
関東での被災駅は、東京駅丸の内本屋をはじめ赤羽、池袋、蒲田、川崎、八王子、
近郊では宇都宮、水戸、日立等、大都市の中核となっている都市が多く、
地域の人々や地域経済への影響が出て、鉄道駅の復旧が急がれました。
運輸省は1945年(昭和20年)9月に「鉄道復興五カ年計画」を作成し、
駅舎の復旧方針を示した「停車場復興基本方針」では、
駅施設以外に商店などの利便施設を併設した駅本屋を建設する方向性が示されました。
しかし、輸送力を至急回復、向上させるように要請されていた国鉄は、
戦中に傷んだ線路網の修復を進めるのに手一杯で、
莫大な費用が必要となる駅舎の再建に回すことが出来る資金は限定的でした。
そのため、苦肉の策として考案されたのが、
1950年代に開発が相次いだ「民衆駅」構想でした。
駅舎内に民衆施設(商業)を併設させた民衆駅構想
1948年、日本国有鉄道法(以下、国鉄法)が公布され、運輸省から現業部分を
分離させる必要があるとの判断から、国鉄は独立採算制を取ることが決定し、
翌年政府が100%出資する独立採算制の公社(特殊法人)として日本国有鉄道が発足し、
国有鉄道事業を継承しました。
しかし、国鉄は国の一機関であり、国鉄法によって鉄道事業はもとより、
関連する事業は厳しく限定されていました。
国鉄に資金がないならば、寄付をして駅の改築をして欲しいという申し出が自治体側からも相次ぎ、
国鉄が考え出したのが地域の有力な商業者や資産家などに駅の改築工事の一部を負担して貰い、
その代わりに竣工後は駅本屋の一部に設ける商業施設に優先的に出店して貰うという考え方でした。
駅舎に民衆施設を併設した民衆駅は、国鉄の駅舎の再建に貢献するとともに、交通の拠点としてだけでなく、
駅に新たなショッピングの場という側面を生み出しました。
民衆駅第1号は、「豊橋駅&池袋駅西口」
民衆駅は、1950年の豊橋駅、同年の池袋西口を皮切りに、
その後1950年代、60年代に全国の約50駅で開発されました。
豊橋駅民衆駅など草創期の民衆駅は、
商業施設としては規模が小さかったり、池袋駅西口民衆駅は、
「東横百貨店(現:東急百貨店)」が、売場の多くを占めていましたが、
当時は資金力のある小売業というと、何といっても百貨店であり、
国鉄としても多くの中小テナントを入居させるよりも、
百貨店を導入した方が確実性が高いという認識があったのではないでしょうか?
(*東横百貨店は、1969年に東武百貨店に売却されています)
また、
1954年にフルオープンした東京駅八重洲口民衆駅は、
核テナントである「大丸百貨店」のほかに
有名店などを多く集めた名店街で構成され、
駅ビル型ショッピングセンターのモデル型が出来上がりました。
1957年には、池袋東口民衆駅には
百貨店「東京丸物」が開業しています。
(*東京丸物は、1969年に「池袋パルコ」になり現在に至っています)
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「百貨店と民衆駅」に影響を与えた百貨店法制定
前記の池袋駅東側の「東口民衆駅」での百貨店「東京丸物」の導入は、
国鉄にとっては大きな転機となりました。
1953年に運営会社として(株)池袋ステーションビルを設立しましたが、
翌年京都の(株)丸物百貨店が資本参加して出店方針を示すと、
地域の中小小売店から出店反対運動が起きました。この反対運動は、全国的に知られる事となり、
国鉄の駅ビルは地域の合意、協力を得ながら進めることが求められ、その後、地域の有力企業などが出資し、
自治体が申請し、それを国鉄が許可して開発する形がとられました。
そんな中、1956年に百貨店の出店を規制する百貨店法が制定・施行され、
新規出店に対しての風当たりが強くなったことにより、
民衆駅は百貨店に頼らずに有名店や多くの専門店を取り込んだ商業施設にせざるを得なくなりました。
そのことが逆に民衆駅から発展した駅ビルが、
ショッピングセンターとしての性格と魅力を強める事に繋がったと言えるのかも知れません。
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悲願だった国鉄出資会社による駅ビル開業
(1)1970年代以降の国鉄の駅ビル開発と駅ビル会社への出資
1971年の国鉄法改正により、国鉄の悲願であった民衆駅方式によらず、
直接駅ビル会社に出資することが認められました。
1973年に制定された大店法では、駅ビルの新規出店も規制されましたが、
これにより、国鉄は駅ビル開発に当たっては、
地元の企業、銀行や商工会議所等の出資を受けながら、
「一つの駅ビルに対し、一つの会社」を設立しました。
国鉄出資会社による駅ビル第1号は、
国鉄出資30%の平塚ステーション開発(株)が開発し、
1973年に開業した「平塚ラスカ」です。
その後、
名古屋ターミナルビル(1974年開業、名古屋テルミナ)
博多ターミナルビル(1975年開業、博多デイトス)
新宿ターミナルビル(1981年開業、ルミネ新宿)
をはじめ、国鉄が自ら出資して数多くの駅ビルが開発されました。
(2) 国鉄の民営化とJRによる駅ビル会社の集約
1987年に国鉄が民営化されて発足したJR各社にとっては、駅ビル事業の活性化とともに、
経営の合理化が課題になります。
多くの駅ビルを抱えていたJR東日本は、
駅ビル会社への出資比率の向上とそれらの会社の集約に取り組みました。
民衆駅の時代、あるいは民営化前の国鉄時代に設立された駅ビル会社を、
子会社の(株)ルミネ、(株)アトレなどを核に
合併と集約化を進めました。
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私が体験したこと。わかったこと。
1950年代からスタートした民衆駅ビルは、国鉄が直接事業運営できないという制約を受けながら、
今日のルミネ・アトレを頂点とした「駅ビル型ショッピングセンター」に
繋がっています。
私がテナント側の開発担当者として体験したこと、教えられたことは、
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●駅を劇的に変えた ―「駅ビル開発の3点セット」―
1978年開業の仙台エスパルでこの言葉を知りましたが、
3点セットとは
(1)駅舎の改良(仙台の場合は新幹線開通に伴い高架化)、
(2)東西あるいは南北の自由通路
(3)自由通路から駅前広場の上に掛かるペデストリアンデッキ です。
駅ビルとともに完成した3つの施設環境は、地域の玄関口として、
交流と出会いの場となる駅前開発に大きく寄与・貢献しました。
●女性活躍の場の創出を先取りした ―「横浜ルミネ」―
1980年に横浜駅東口(当時の横浜駅の正面は西口で、東口は裏側でした)に
開業した横浜ルミネは、首都圏のルミネ以外にも、
福島ルミネ、富山マリエ、金沢百番街、浜松メイワン等の
開業を支援しました。
初代社長の速水信一氏が掲げた新たな駅ビルとしてのビジョンと、
テナントとの関わり方、
そして運営マネジメントにおける女性活躍の場の創出等は、
今日を予測してしたかのように思います。
●自営百貨店実現にチャレンジした ―「JR東日本」―
JR東日本は、1987年の民営化後、上野と海浜幕張への百貨店出店構想を立ち上げました。
前職の会社は上野広小路が発祥であり、上野商店連合振興組合の理事として、
「上野駅での百貨店構想の要望書を取りまとめる検討会」に参加しました。
結局、自営の百貨店は実現しませんでしたが、大阪でいち早くターミナルデパートを成功させた
(株)阪急百貨店と提携し、
同社からノウハウ提供を受けて、「グランデュオ」として、
立川駅(1999年)と
蒲田駅(2008年)に
百貨店とSCの中間的な形態の駅ビル事業を展開しています。
百貨店業界は1991年をピークに減少し続けており、
SC化に取り組む百貨店も出ています。
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駅ビル型ショッピングセンターの今後について
駅ビルは、前述の開発の3点セットに則り、原則的には駅改札の外で商業施設を展開して、
「駅ビル型ショッピングセンター」という形態を確立しましたが、
JRへの民営化以降、ICカードのSuica導入に伴い、各駅の構内に新たな区画が生まれ、そこに駅利用者の更なる取り込み施策が深耕しました。
<大宮駅での事例>
・駅改札外では、利用頻度が減った券売機や出入札関係の縮小により生まれた区画や、
東北・上越新幹線の始発駅時代に1階にあった貴賓室などの区画に
ルミネが売場を増床しました。
・駅改札内(通称:エキナカ)では、区画を整理して、空間コンセプトを強く意識し、
駅ビル型SCと言われる従来の不動産賃貸業ではなく、小売業の形態を持ちながら、
従来とは違った新しいビジネス分野として、2005年に
「エキュート大宮」を開業しました。
SC&パートナーズ西山社長は、「駅ビルのみならずSCは、エキナカ開業の2005年以降、
同じタイプのSCをつくり続けて15年以上経過しており、
これから新たなイノベーションが求められます。」と語っておられます。
商業施設は、従来は「お客様を集める」ことに注力していましたが、
今後は「お客様が集まる」装置・仕掛けへの転換が求められます。
コロナ禍を経て、お客様の行動が少しづつ都心から郊外へと移行している中、
特に都心型SC(駅ビル含む)では、「この指とまれ!のテーマ性」が
求められているのではないでしょうか?
丸井は現在、SC化へ進化中ですが、「売らない店の面積について、
現状43%を2026年までに70%に高める」と宣言しています。
キーワードは、サスティナブル(持続化)、
サーキュラー(循環させる)、
イベントフル(話題のあるイベント)とし、まさに「この指とまれ!」の提案です。
都心及び郊外拠点ターミナルの駅ビルは、
地域の玄関口の駅として、駅の改札外・内でのワンストップ・ショッピングだけで終えるのではなく、
まちなかと連携することによって、お客様の回遊を促し、便利で楽しいと感じて貰うことがより重要です。
「お客様が集まる装置・仕掛け」を発信していきましょう!
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最後までお読みいただきありがとうございました。
次回もよろしくお願いいたします。
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ワンスアラウンド株式会社
顧問 馬場 英喜
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弊社と何らかのご縁をいただいたお客様にお届けしております。
皆様からのご返信を筆者も楽しみにしております。ご感想などございましたら、
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